フードシステムをコントロールするのは、大企業の資本や市場ではなく、生産者や流通、消費者であるとする「食料主権」という考え方が注目されています。
ロシアのウクライナ侵攻から1年が過ぎて、2023年にはパレスチナとイスラエルの戦争が始まり、国際社会の均衡が揺らぐなか、食料供給やエネルギー資源の供給を海外に依存する日本では、食料生産や流通のあり方を改めて問い直す動きが出てきています。
少子高齢化の日本と同様に、EU離脱後に労働力不足によって収穫面や物流面でさまざまな問題が相次いでいる英国では、政府からの指示で、第三者機関である民間組織から、従来の農業政策を見直し、農地の使い方や食文化を持続可能なシステムに作り変えていくべきだという提案が注目されました。
前回に続いて、北海道大学大学院の小林国之さんと一緒に、イギリス政府が今後の食料戦略をどう捉えていくのか学ぶことで、明日の日本の食料生産体制について考えます。
・ディンブルビーの答申に英国政府はどう答えたか?
・ディンブルビーの提案から取り入れられたのは「食育活動への資金提供」だけ
・農地の有効利用に見られる新たな役割
・絵に描いた餅で終わらないか?という不満
・食料政策は、国民の健康医療と表裏一体
・食料安全保障は、自給率を上げるだけのためのものではない
ディンブルビーの答申に英国政府はどう答えたか?
EU離脱後のイギリス(イングランド)の食料生産・農業政策について、同国内のレストランチェーンの経営者で、食の批評家であるヘンリー・ディンブルビー氏が代表として取りまとめた「ナショナル・フード・ストラテジー(食に関する提言)」という答申を2020年と2021年の2回にわたってまとめました。
その最終答申である“The Plan(ザ・プラン)”では、以下の4つの目標ごとに、それぞれの提案(レコメンデーション)がなされたのは、前回お知らせした通りです。
4つの提案
1. Escape the junk food cycle and protect the NHS(ジャンクフードサイクルから抜け出し、「国民保険サービス」を守る)
2. Reduce diet-related inequality (食生活に関連した不平等を削減する)
3. Make the best use of our land (ベストな土地利用を実現する)
4.Create a long-term shift in our food culture(食文化に長期的なシフトをもたらす)
これに応える形で政府が2022年6月13日に発表したのが「Government food strategy(政府食料政策)」です。
内容をみてみると、①健康・高品質な食料の安定的な供給と、②持続的、未来にまで続く農業生産方法の確立を実現しようとしている点が特徴として上げられます。
食料の安定供給については、国内の生産拡大と、国内では生産できないが食料安全保障に重要な作物の安定的な輸入の実現を目標としています。
国内の安定的な生産には、資材価格の変動などが今後も予測されるなかで、生産者のリスクマネジメントや「保険」の新たな開発、効果的な農業経営計画の立案などが必要だとしています。
さらには、現在の農産物価格上昇の影響をより深刻に受けている国々へのサポートなど、国際的な視点からも効率的なフードシステムを作ることが目標とされています。
ディンブルビーの提案から取り入れられたのは「食育活動への資金提供」だけ
こうした内容をもつ戦略ですが、ディンブルビー氏らがとりまとめた「The Plan」の提案内容はどのように反映されているのでしょうか。
The planは、全部で4つの目標を掲げ、目標ごとに合計14の「レコメンデーション」から構成されていますが、政府の食料戦略でそのままに受けいれられたものは、たった一つ。それは子供たちの休日の食育活動への資金提供だけでした。
(1)英政府の食料戦略「Recommendation 2 」〜大手食品企業への報告義務の導入
前回に紹介したように、大手食品企業に対して、糖・脂肪・塩分を多く含む食品の販売実態などの報告を義務づけるという提案ですが、これについては2023年までにどのようにデータを集めるのか、どのような指標が適切なのかというコンサルテーション(援助)を行う、ということになりました。報告義務化というのはすぐにはできないが、それに向けての準備を進めていく、という方針です。
(2)英政府の食料戦略「Recommendation 7」〜低所得者の食生活改善のためのCommunity Eatwellプログラム
これはイギリスの医療関係の支出のほとんどが、病気治療に使われているのに対して、予防医療にもっと予算を使うべき、という考え方に基づいています。
その予防策は、「かかりつけ医が野菜や果物のクーポンを処方できるようにする」というものです。これは、米ワシントンD.C.などで導入されている制度で、それを参考にイギリス(イングランド)でも導入しようという提案でした。
より健康で持続的なフードシステムに変えていくために実証試験的に行うさまざまな施策のひとつ、つまりパイロット事業として実施するとされています。
農地の有効利用に見られる新たな役割
(3)英政府の食料戦略「Recommendation 9 」〜3区分(スリーコンパートメント)モデルにもとづく土地利用
農地の利用方法に関するとてもユニークかつ意欲的な提案になっています。
持続的なフードシステムを実現するために、農地をどのように使うのが良いのでしょうか?───持続的といった場合には、そこにいくつかの矛盾した視点が含まれています。国民に対して必要な量の食料の生産を生産することが大切なのはいうまでもありませんが、それと同時に自然環境も豊かにする農業、土地利用のあり方が求められています。
イギリスの人たちは農村での散歩を大切な趣味としている人が多くいます。歩くこと、自然に触れることは健康増進にも繋がります。そうした意味で、農業には多くの役割が期待されているのです。
さらにいえば、農村部では最近、地価の上昇が起こってきます。富裕層が農村の土地を買い求める。それによって地価が上昇してしまい農村住民が確保できる住宅が少なくなってしまうという問題です。
このように、農地をいかに利用するのかということがこれからの社会において重要なテーマとなっているのです。そうした点に対しての提案がこの3区分土地利用という考え方です。
イングランドの農地面積は920万haですが、その33%の農地から、国民が食べる農産物全体の57%分を生産している、という数値があります。
このように、生産性の高い土地で食料生産を行うことで、より少ない面積で必要な量の食料を生産し、生産性が低い土地では、「リジェネレイティブ」農業と呼ばれる“環境再生型農業”などの実践を行い、さらに生産性の低い土地では環境保全、自然資源の保全などを目的として土地利用を行うという考え方です。
これについては、政府の温室効果ガス削減目標や「ELM(Environmental Land Management)」とよばれる農業・環境政策などとの兼ね合いも踏まえて、2023年に土地利用の方針を発表するとしました。
絵に描いた餅で終わらないか?という不満
(4)英政府の食料戦略「Recommendation 12」〜生産から流通までユーザーがトレーサビリティーをチェックできるデータプログラム
これは、生産段階から流通、加工、小売り、消費(健康、環境への影響など)までの一連の流れをデータ化し、さまざまなユーザーがプログラムにアクセスすることで、フードシステムの効率性を比較検討できたり、施策の効果を測定することなどができるようにする、という提案でした。
情報を修正、加工してユーザーが使いやすくすることで、フードシステムに参加する人たちがより効果的な行動をとることを可能とする──それによって、システム全体の変化を促そうというものです。
実際にこうしたシステムを作ることは簡単ではないでしょう。政府の戦略では業界に対して情報提供を求める、情報の透明性を高めるための取り組みを促すという内容にとどまりました。
(5)英政府の食料戦略「Recommendation 13」〜政府関係機関における健康で持続的な食料の優先的調達
消費の場面でいかに変化の流れを作っていくのか。その際に公的セクターにおける調達から始めるということはよくある戦略です。
日本においても有機農業の推進において学校給食での提供を進めようという政策提案がなされたりしています。この提案もそうした目的を持ったものでしたが、政府の戦略では「将来において検討する」という程度にとどまってしまいました。
ほかにディンブルビー氏が提唱した「The Plan」でも最も注目されていた提案が、「砂糖と塩の税の導入」ですが、それについては政府戦略では取り上げられませんでした。
The planを作り上げたディンブルビー氏のように、「いまの食料システムの問題は待ったなし、緊急の課題だ」という課題感を持っている人たちにしてみたら、英国政府ののんびりとした対応は、かえって不満を募らせる結果になりました。
食料政策は、国民の健康医療と表裏一体
また、The Planが最初にかかげたのは”Escape the junk food cycle and protect NHS(ジャンクフードサイクルから抜け出し、「国民保険サービス」を守る)”でした。
イギリスの医療保健制度(NHS)は財政的にも危機的な状況にあります。この提案は、人々の健康問題の根本原因に食の問題があるという認識に立っています。
医療保険制度をどう改革するのかではなく、その根源にある食の問題を解決すること。つまり、健康的な食を提供できるフードシテスムを作ること、それが回り回って医療保険制度の改善にも繋がる、という考え方です。
今ある課題への対処をする際に、その課題がいかなる関連性のなかで生じているのか、その仕組みを解明し、その仕組自体をかえることで課題の解決を図る。
そうした方法を「システム思考」といいますが、まさにディンブルビー氏のThe Planでは、いまの食料問題をこのシステム思考で解決すべきだ、ということを提案しています。
ですが、システム思考に基づいた政策を実施していくためには、政策としても分野横断的になる必要がありますし、それを所管する省庁も縦割りでは実行できません。
現状では、イギリスもこうしたシステム思考に基づく政策ではなく、縦割り行政のなかで、対処療法的な「食料戦略」に留まってしまった、というのが現在の評価だと思います。
食料安全保障は、自給率を上げるだけのためのものではない
今、日本でも食料安全保障が議論されています。
輸入に依存している作物の国産化、生産資材の国内代替転換など、資材価格の高騰のなかで、いかに国内農業生産を持続可能なものとしていくのかという視点からの施策が目指されています。同じ食料輸入国であるイギリスにおいては、食料の増産のなかでも、とくに野菜や果実などの増産が課題となっています。その背景には、上述したような国民の健康増進という強い目的があります。また、農地利用についても、たんに単なる増産だけではなく、自然環境、生態系保全など多様な目的のなかでいかにして最適な姿を目指すのか、ということが議論されています。
日本では、大豆や小麦の増産が目標とされていますが、その目的はなんでしょうか。それらの作物を国産化する、ということは消費者にとってどのような意味があるのでしょうか。
食料安全保障の目的を、単に自給率を上げるために食料生産を増やす、ということだけではなく、国民にとってフードシステム全体をどのようなものにしていくのかという視点からの議論が必要だ、ということをイギリスの事例は示してくれていると思います。
この記事の執筆
北海道大学大学院農学研究科を修了後、イギリス留学。主な研究内容は、新たな農村振興のためのネットワーク組織や協同組合などの非営利組織、新規参入者や農業後継者が地域社会に与える影響など。また、ヨーロッパの酪農・生乳流通や食を巡る問題に詳しい。主著に『農協と加工資本 ジャガイモをめぐる攻防』日本経済評論社(2005年)、『北海道から農協改革を問う』筑波書房(2017年)など。