進路に迷い、思い切って飛び出した海外
前回までは、YUIMEの前身であるエイブリッジが沖縄で農業の人材派遣をスタートさせ、紆余曲折を経て、全国展開するまでをご紹介しました。他社が手を出しにくい厳しい環境だからこそ、突破する糸口が見える。そういった考え方のもと、事業を前進させてきました。
ここで、そのルーツとなる私の学生時代についてお話ししたいと思います。自分の生い立ちを振り返ったとき、やはり大きな転機となったのはアメリカ留学です。
渡米したのは、高校を卒業した年の7月。大学受験に失敗し、浪人の道を選ばず、「アメリカに行こう!」と思い立ちました。「アメリカに留学すれば、苦手な英語も話せるようになるし、向こうの大学も卒業できて、一石二鳥だ!」と。
そのころの私は、すべてが嫌だった。「受験勉強をして大学に入り、卒業してサラリーマンになる」という将来像に、興味も魅力も感じず、誰も私のことを知らず、私も誰も知らない、そんなまったく新しい環境に身を置きたかったのです。
留学生活を語る前に、18歳までの自分を少し振り返ろうと思います。
私は大阪の交野市で生まれました。幼少期はものすごくおとなしく、ままごとや庭の土いじりばかりしていました。父はそんな私を心配し、叔父が運営していたラグビースクールに私を入れました。小学5年生のときです。
そのチームは大阪でも結構強く、大会を勝ち上がっていました。30〜40人のチームで、試合に出られるのは選抜メンバーだけなのですが、定期的に私も経験を積むために試合に出されました。小学生でも基本的にはフルコンタクトで、小柄な自分は怖くて仕方なかった。毎日曜日、練習場まで1時間かけて父が私を車で連れて行くので、さぼることもできませんでした。
そんな嫌々ながらのスタートではあったけれど、中学3年間は部活でラグビーを続けました。高校は、全国大会で優勝するほどの強豪校に入ったのですが、練習を見た瞬間に「これは自分には無理だ」と思い、入部はしませんでした。
勉強はそんなに得意ではありませんでした。特にできなかったのが英語。学問として捉えられないというか、単純な暗記とも違うし、数学の方程式のように正確なルールがあるわけでもないので、なかなか習得できなかった。入学時は成績が良かったのですが、あれよあれよという間に急降下しました。
思春期特有の無気力さにも襲われ、親しい友達もおらず、自分にとっては空虚な高校3年間でした。大学もすべて不合格。「専門学校にでも行ったほうがいいんじゃないか?」と周りに勧められ、「それだったら苦手な英語を克服するためにアメリカに行く!」と思い至ったのです。
アメリカの子どもたちに英語を教わった
留学に対する家族の反応は総じて「突然何を言い出すんや?」でした。でも、私が語学学校を調べたりしているのを見て、本気だと感じたのでしょう。父が以前の仕事仲間を連れてきて、「この方のお嬢さんがシアトルで日本食レストランをやっている。その家にホームステイするならいい」と許してくれました。
7月に渡米してワシントン州の語学学校に一旦入学した後、9月に私立高校の3年生のクラスに編入しました。
当然ながら最初は授業がまったくわかりません。例えば「文学」の授業で学ぶのはなんとシェイクスピア。現代の英語も話せないのに、古典英語がわかるはずもない。そこで先生に「アメリカに来て3カ月しか経っていないのに、これを理解するのは無理です」と申し出たところ、「君だけのカリキュラムを用意しよう」と、10センチもの厚さの教科書を渡され、章ごとに要約するようにと言われました。私は日本からシェイクスピアの日本語版を取り寄せ、それを英訳して提出することで文学の単位をクリアしました。
最も学びが大きかったのは、福祉活動のカリキュラムです。保育園に行って、子どもの食事の世話や寝かしつけなどを手伝いました。アメリカの子どもはこちらが英語を喋れなくても関係ない。ちゃんと遊んであげたら、ものすごく懐いてくれます。わからないときは日本語とジェスチャーやボディランゲージを組み合わせることで、十分通じ合うことができました。
最終日、「耕平は今日で来なくなる。みんな、さようならを言って」と先生が話しかけると、子どもたちがわあっと寄ってきて、顔にキスをしてくれました。英語が喋れないというコンプレックスで内向的にならざるを得なかった自分が、この授業のおかげで大きく前進したことは間違いありません。成績も、この福祉活動だけは「エクセレント」でした。(構成=堀香織)