「食料主権」という言葉をご存知でしょうか?
食料自給率が極めて低い日本で、戦争や紛争が勃発し、海外からの輸入が途絶えたとき、食料安全保障の問題をどう克服するのかに関する議論に終わりはありません。
一方、世界に目を向けると、これまでのような大手資本による支配に対抗して、中小農業者や農業従事者の間では、「食料生産や流通の主権を、食料生産者や地域社会に取り戻すべきだ」という考えに注目が集まっています。
小林国之さん(北海道大学大学院農学研究院准教授)は、生産者や地域農協などの人とのつながりを通じて、農業が抱える問題をとらえる農業経済学を専門としている研究者です。
小林先生と一緒に食料主権について考えていきましょう。EU離脱後のイギリスでは、労働力不足によって収穫や物流などさまざまな問題が起きています。多くの問題を抱える日本の農業が学べる部分があります。
この記事のポイント
・世界の飢餓人口はコロナ禍以前より増加している
・食料自給率が38%の日本で食料不足は起きるか?
・グローバル化した食料システムの課題が現実化しているイギリス
・EU離脱で労働力が確保できない!収穫されないまま放置される農作物
・イギリスがEU離脱で取り戻したかった農業政策
・農業への補助金の性質が変わった!
・ディンブルビーの食料・農業政策に関する提案
・1.健康な食生活を取り戻す
・2.食の不平等を是正する
・3.農地をどう利用するのか?
・4.持続可能な食文化への転換
・英政府の答え
世界の飢餓人口はコロナ禍以前より増加している
世界はいま、グローバル化に伴って、どこかの国や地域でひとたび危機が発生すれば、他の地域にも派生していく複合危機とよばれる時代に生きています。そのなかで、食料や農業のことをどのように考えていけば良いのか、ということをあらためて考える事態に直面しています。
コロナウイルスパンデミック、ロシアとウクライナの戦争、中東の危機、世界各国で常態化した異常気象。さまざまな要因が影響して、世界では飢餓に直面している人口が2022年には7億3500万人と推計されており、これは2019年に比べて1億2200万人の増加となっています。(出典:FAO国連食糧農業機関)
食料自給率が38%の日本で食料不足は起きるか?
世界的には食料に関して大きな影響がでてきていますが、カロリーベースで38%しか自給率のない日本はどうでしょうか。
確かに物価は上がっていますが、深刻な食料パニックのようなものは起きていません。「ほら、日本は大丈夫だよ」。本当にそうでしょうか。そこには見過ごしている、または見えていない問題はないのでしょうか。
私はそのことを考えるために、「食料主権」という言葉がヒントになるのではないかと思っています。食料主権とは、単純にいえば、自分たちで何を食べるのか、ということを自分たちで決めることができる権利、といえば良いでしょうか。
単なる自給自足や、“昔に戻れ”という懐古主義的な発想とは異なる、グローバル化した世界のなかでの「食料主権」とはどのようなものなのか──。この連載では、いろいろな切り口から、そのことについて考えてみたいと思います。
グローバル化した食料システムの課題が現実化しているイギリス
いま、世界の国々で自国の食料のあり方を考える議論が進められています。
まずは、そうした動きを紹介することから連載を始めたいと思います。取り上げるのは、イギリスです。
コロナウイルスパンデミックや現在の資材価格の高騰は、イギリスの農業生産や食料に大きな影響を与えています。
それは、EU離脱によってイギリスに輸入される農産物の通関手続きに時間が掛かるようになったということです。ある報道によれば、イギリスの通関手続きに並ぶトラックの列が77時間かかった、という事態が発生しています。こうなると、イギリスではなく他に国に輸出した方がいいや、ということになっています。
EU離脱で労働力が確保できない!収穫されないまま放置される農作物
そのほか、EU離脱によってそれまで野菜、果実の収穫に欠かせない労働力であった他のEU加盟国からの労働力が減少し、収穫できずに畑に放置される野菜や果実の量も深刻な問題となっています。
2021年では労働力不足によって収穫できなかったベリーの損失額は、前年からほぼ倍の3650万ポンド(約63億円)にのぼったといいます。
以上のことを踏まえて、今回の問題の要因を整理すると以下のようになると思います。
・国産野菜の低い比率
・EU離脱による労働力不足
・EU離脱による通関手続きの煩雑化
・エネルギーコスト(資材費)の上昇による生産減
・スーパーマーケットの低価格契約
イギリスがEU離脱で取り戻したかった農業政策
「世代に1回のチャンスだ」というスローガンで、イギリスは2016年の国民投票でEUからの離脱をギリギリで決めた国です。イギリスがEUからの離脱によって実現したかったことの一つが自国で農業政策を決めることです。
動物福祉や環境規制などに厳しい国というイメージがあるかもしれません。確かにそうなのですが、それはある意味で、農業が企業化し、規模拡大、効率を優先するという衝動を内部に抱えているからこそ、それを「社会」が規制、監視する、という関係と言えるでしょう。
食料をめぐる課題が深刻化しているイギリスにおいて、まさに独自の農業・食料政策によってこの危機を乗り越えることができるのかどうか。
いまのところEUから離脱したことのデメリットの方が大きくなってしまっているなかで、EUから離脱したこと、独自に政策が決められるようになったことのメリットを発揮できるのかという勝負の時になっているのです。
農業への補助金の性質が変わった!
EU離脱後の農業・食料・農村をめぐる政策の重要なキーワードとなっているのが「public money for public goods」です。
「公的なお金(農業への補助金)は、公的な便益がもたらされるもの・ことに使う」というこの考え方は、それまでの農業政策にあった農業経営を支えるための補助金、という考え方から大きく舵を切るものとなっています。農業経営を支えるためのお金ではなく、農業経営が「公的に良い便益をもたらしているから、補助する」ということです。
農業において食料生産は公的な便益と言えますが、その役割が、環境の再生、生物多様性、治水機能、レクリエーション機能などと、同等の位置づけとされている、ということを意味しています。「食料を作ることは大切だけど、それだけでは農業は補助しませんよ」ということです。
EUの離脱以降の食料及び農業に関する政策やプランの経過を示しているのが、次の表になります。
ディンブルビーの食料・農業政策に関する提案
EUの離脱が決まったのが2016年の6月23日です。離脱が51.9%、残留が48.1%という僅差での決着でした。
その時期に政府は、政府から独立した組織による食料・農業政策についての提案(independent review)をヘンリー・ディンブルビー氏に委託します。彼はイギリス国内のレストランチェーンの経営者であり、サステナブルレストラン協会の設立にも関わっていて、持続的な食のあり方についての批評を行うなど、その分野でのセレブの一人です。
彼は「ナショナル・フード・ストラテジー」という非常に意欲的な答申を、2回に分けて出しました。それが2020年7月と2021年7月です。
最終答申である“The Plan”では、フードストラテジー(食に関する提言)として以下の4つの目標を掲げ、目標ごとにそれぞれの「レコメンデーション」を提案しています。
Recommendations (提案)
1. Escape the junk food cycle and protect the NHS
(ジャンクフードサイクルから抜け出し、「国民保険サービス」を守る)
2. Reduce diet-related inequality (食生活に関連した不平等を削減する)
3. Make the best use of our land (ベストな土地利用を実現する)
4. Create a long-term shift in our food culture(食文化に長期的なシフトをもたらす)
1.健康な食生活を取り戻す
ひとつめの目標として掲げられているのが健康の問題です。
イギリスでも子供の肥満の問題、食生活に起因する健康の問題が大きな社会問題となっています。
これらが国の医療システムを圧迫しているという認識のもとに、こうした健康な食生活ということが、最初の目標として掲げられているのです。
具体的な提案内容に目を向けると、砂糖・塩税の導入とその税収を利用して、低所得の人たちに新鮮な野菜や果物を提供すること、学校給食での健康なメニューの提供、日本風にいえば食育の推進があります。
また、食品メーカーに対しても、その企業活動に一定の監視の目を入れるという目的で、次のような事項について毎年報告する義務を課すことを提案しています。
糖・脂肪・塩分を多く含む食品・飲料の売上高、タンパク質の種類別の売上高、野菜・果物の売上高、主要栄養素の売上高、食品残渣などです。
背景には、食品メーカーによるマーケティング戦略が不必要な糖分や塩分の摂取につながっているという強い認識があります。
こうした報告を義務づけることで、政府や投資家、消費者が、その企業がどんな方向に進んでいるのかを知ることができることになり、それが企業の行動を変えていくことにつながることが期待されています。
2.食の不平等を是正する
次の目標は食に関する不平等の是正です。
3.農地をどう利用するのか?
三つめの目標は土地利用のあり方です。
イギリスの農地をどのような目的として使うのか。どのように土地を利用するのか。農業をどうするのか、という産業政策的な視点ではなく、国土・環境をどうするのか、という大きな視点からの土地利用、そのひとつとしての農業、という考え方がここに表れています。
4.持続可能な食文化への転換
四つめが食文化自体のシフト(転換)です。
現在のイギリス人が利益を受けているフードシステムと、それにもとづいて実現している食文化は、環境への負荷、自然資源の枯渇などの点で持続的なものとは言えません。
フードシステムを持続的なものとするためには、食文化自体も長期間かけて変えていく必要がある、という認識がその背景にはあるのです。
こうした4つの目標からは、ディンブルビー氏に代表されるような、持続的なフードシステムの実現を目指している人たちが、今イギリスの食や農業の問題をどのようにとらえているのか、ということを色濃く反映した内容となっていることがわかります。
英政府はどう答えたか?
さて、これに対して、イギリス政府は、2022年に「Government National Food Strategy」を発表しました。独立した機関によるレビューに対して、いろいろな「しがらみ」を抱えている政府が、どのようにそれにリアクションしたのか?
ディンブルビー氏に言わせると「がっかりした」内容となったこの戦略については、次回詳しく説明したいと思います。
この記事の執筆
北海道大学大学院農学研究科を修了後、イギリス留学。主な研究内容は、新たな農村振興のためのネットワーク組織や協同組合などの非営利組織、新規参入者や農業後継者が地域社会に与える影響など。また、ヨーロッパの酪農・生乳流通や食を巡る問題に詳しい。主著に『農協と加工資本 ジャガイモをめぐる攻防』日本経済評論社(2005年)、『北海道から農協改革を問う』筑波書房(2017年)など。