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第5話 代表取締役 上野耕平 「アメリカでの理不尽な差別が強くしてくれた」

第5話 代表取締役 上野耕平 「アメリカでの理不尽な差別が強くしてくれた」


人生初の徹底的な差別と理不尽な暴力


高校に編入したころ、実はパニック障害のような症状があらわれ、2日に1回は休んでいました。理由はいじめです。授業に出ると、先生が背中を向けて板書し出した途端に椅子ごとひっくり返されたり、ロッカーが蹴られてへこんでいたり、といったことが日常茶飯事でした。

露骨な差別、理不尽な暴力──そういったことは、日本で育った18年間ではまったく経験したことがなかった。守ってくれる人はおらず、すべてをひとりで引き受けなければいけない、と痛切に感じました。

一方で自分には負けず嫌いなところがあって、なんとしてでも卒業してやるとも思っていました。そのためには、環境を受け入れて順応して生きていくしか方法はありませんでした。

そこで、いじめられるクラスに当たったら、教頭に「あのクラスは合いません」と言ってクラスを変えてもらうなど、自分なりに処世術を身につけました。アメリカでは、生活すべてが「交渉」です。黙っていたら誰も助けてくれない。自分であれこれ方法を考え、生きやすい環境をつくらなければ自滅してしまいます。「いまの自分には何の価値もない。ここで大きく自分を変えないかぎり未来はない。負け癖がついたら、後ろに下がる人生しかなくなってしまう」と自らに言い聞かせました。

そうして半年が過ぎ、ようやく友達ができました。台湾系アメリカ人のスティーブと、生徒会長をしていた白人のダンです。特にスティーブは優しくて、よく私の宿題を手伝ってくれました。

彼らの存在は大きな助けとなり、なんとか1年で卒業必須科目をすべて取得して卒業しました。母が卒業式に来てくれたのですが、一斉に帽子を空に投げるアメリカ式の卒業式を見てとても喜んでいました。

ワシントン州の大学のキャンパス風景

日本食レストランのアルバイトで鍛えられる


高校の授業以外で非常に役立ったのが、ホストファミリーが経営していた日本食レストランでのアルバイトです。当然お客様の多くはアメリカ人。それまでアルバイトの経験がなかったこともあり、何もかもが衝撃的でした。「今の自分はなんて無力で価値のない人間なんだろう」と痛切に感じ、そこから努力を惜しまないようになったと思います。

最初はバスボーイと言って、食器をさげる役割でした。賄いは出ますが、バイト代は出ないので、稼ぎとしては1日10〜20ドルほどのチップだけでした。

ところが人が足りなくなったのか、ある日「明日からウェイターやって」と言われたのです。注文を取るときの英語はわかるけれど、料理について質問されても、相手が何を言っているのかわからない。しかし、質問のパターンはほぼ決まっているので、しばらくすると慣れました。そのうち「私は留学生で、がんばって働いています」と言えるようになって、チップも弾んでもらえることも。ランチで20〜30ドル、ディナーで100ドルと、当時の日本円で1日1万円程度は稼いでいたと思います。

大学に入学後は寮に入りました。寮からレストランまでは車で1時間ほど離れていたのですが、毎日授業が終わってから通いました。仕事が終わるのが23時半くらい。それからホストファミリーに「食事に行こう」と誘われ、帰宅すると1時になることも。夏休み期間中は寮を出ないといけないので、ホストファミリーの家に居候し、そのときも毎日のように働いていました。稼いだチップは、学費の一部になったほか、食費や、寮から出てルームメイトと部屋を借りたときの保証金などに使いました。

高校のときと違って、フラタニティというアメリカの大学独特の男子学生クラブに入るなど学生生活も謳歌できました。でも、その話は少し脱線しすぎるので、いつかの機会に譲ることにします。(構成=堀香織)


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